酪農とパスチャライズ牛乳
化学肥料を使わない牧草で飼育する牛は健康
私たちが農作物を作るかたわら酪農を始めたのは、昭和30年代です。日本が農業型の国から都市型国家ヘと変わろうとするなかで、「自立した農業」をと考えたからでした。養蚕、炭焼きに代わる新しい産業を興そうと、牛乳の原料生産から加工処理までを手がけ、「木次牛乳」の名で販売を始めました。
国中が近代化へ向けて駆け足をするなかで、農薬や化学肥料に気持ちが傾いた時代もありました。
しかし、乳房炎、繁殖障害、起立不能など、次々に牛が原因不明の病気になり、農薬中毒であることに気づいてから、今一度、伝統農法を見直すことにしました。化学肥料を使うと、農作業は楽になり、あぜの草も青々して人の目からはおいしそうに見えます。ところが、牛を放牧すると、牛はその草を食べません。また、母乳から残留性のある農薬が検出されるなど、いろいろな事実が見えてきました。こうして私たちは有機農業への取り組みを始めたのでした。
膨らむパスチャリゼーションヘの関心
牛も食べ物によって心から体まで元気になり、安定した乳質・乳量が確保できることがわかりました。牛乳が高熱処理で大量生産される日本の現状に、疑問を感じたのもそのころです。
昔から牛乳を飲んできたヨーロッパでは、パスチャライズ牛乳が主流です。
フランスの細菌学者パスツールが発明した殺菌法によるもので、牛乳中の栄養成分や風味を損なうことなく、有害な細菌を死滅させることができます。これをパスチャリゼーションと呼んでいます。一方、超高温法や完全滅菌法により牛乳中の微生物を皆無にする高熱処理は、ステアリゼーションと呼ばれます。保存性・流通性は高くなりますが、牛乳中のタンパク質やカルシウムが変性し、カルシウムなどの消化吸収にも影響します。
酪農の先進地、北欧のように、できるだけ生に近い牛乳を提供したい。パスチャリゼーションヘの関心は膨らむばかりでした。
牛飼いの思いが実を結んだ日本初のパスチャライズ牛乳
本格的なパスチャライズ牛乳開発に取り組みを始めたのは、昭和50年です。いろいろな条件で熱処理した牛乳を発酵させ、データを取りながら3年間、仲間たちと毎日食べ続けて安全性を確かめました。同時に酪農家には飼料から乳搾りの仕方、牛舎の管理法まで徹底し、細菌数を細かく調べて乳質向上を求めました。
こうして53年、パスチャライズ牛乳を流通化。本物の食べ物を届けたいとの生産者の思いが、日本で初めてのパスチャライズ牛乳として実を結びました。
乳量主義から乳質重視
中山間地のモデル牧場開設
平成2年、自社牧場として「日登牧場」を開設。ブラウンスイス種を日本で初めて農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場としました。牛一頭一頭の世話がおろそかになるので、規模を大きくするつもりはありません。が、過保護にもしません。ひもじさ、寒さ、難儀を与えないと、人も強い心身にはならないのと同じですから。目が行き届く規模の牧場で、心身ともに健康な牛にと、365日、牛と共に季節を過ごしています。
地域は活性化よりも
沈静化が求められる時代
牛乳と乳製品の生産をしながら、平成5年、私たちは「ゆるやかな共同体」を発足させ、地域の仲間たちと食の自給計画を進めています。
野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。これらの食品を宅配便で消費者に送る事業もしています。小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた社会。すなわち、かつての日本にたくさんあった「地域自給に基づいた集落共同体」を見直したいと考えるからです。こうした共同体が、日本民族固有の文化を維持し、健やかな社会、人間蘇生の社会への「回帰」を可能にするのではないでしょうか。地域は活性化より沈静化がふさわしい時代だと思います。